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両親と禎子に捧げます 『さだこと共にした12年の真実をここに記す』 |
劇的に生まれた(さだこ)
1943年(昭和18年)1月7日午前5時42分、急に産気づいた母を乗せて、大手町に居た父の姉の所に向かう途中、輪タク(三輪自動車のタクシー)の中でいとも簡単に産声を上げたのです。15日の予定日を一週間も早く生まれたために何の準備もする事が出来なくて、全てが右往左往、誠に劇的でありました。運転手さんは近所の方で千載一遇の廻り合わせ、実に縁起が良いと言ってお祝いまで頂戴したのです。初めての女の子故、祖母マツをはじめ父繁夫,母フジコ共々非常に喜んだそうです。。。名前は『禎子』と命名されました。『禎』は幸せと言う意味もあり、父が行く末迄の幸せを願って付けたそうである。
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父と母のなれそめ |
繁夫。。1937年(昭和12年)春頃、陸軍被服支廠<ヒフクシショウ>(軍服、軍靴等を造る軍需工場)の理髪部に入所、父23歳の時でした。母フジコは同年3月、父より少し早く入所していたのです。母20歳の春たけなわの事でした。母は小柄で色白の美しい人で性格も温厚、こんな人を射止めた父は、正直者の働き者、起用で繊細な性格、どうして引き合ったのでしょうか。。。やがて大きな節目を迎える。1940年(昭和15年)3月末頃、当時広島市楠木町1丁目723番地に「日之出理髪館」を開店、続いて10月15日当時広島市千田町の料理屋にて挙式、16日近所の挨拶廻り、翌17日より、早くも理髪の仕事を開始したのです。
義母マツと同居、苦労人のマツは事のほか父をちょう愛したのです。何処にでもあるような光景ですが、朝父が調理するんです、弟子の頃に鍛えられていたのが役にたったんでしょう、包丁の運びが実に軽快でリズムが良いんですよ、マツがその音を聞き,今ネギを切ってるのは繁夫じゃろう?と言う、父はかばって。。いやフジコよと。。いやその音は繁夫じゃ。。と本当にやりにくかったでしょうが、一度でもマツに反発した事は無かったと父は後々までの語り草としていました。今の方々に真似が出来ますかね?誠に辛抱強い母ではありました。
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おいたち <父> |
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父(佐々木繁夫)は1915年(大正4年)11月11日、広島市から山間部に入った中国山脈の盆地、広島県三次市大工(だいく)町1472番地にて、大作(だいさく)とマツの子として誕生したのです。
マツ(母)はこの町で小さな豆腐屋さんをして生計を立てていました。事情があって母一人、子一人の生活が続きました、だから決して生活は楽ではありませんでした。正直で働き者のマツは、豆腐が出来あがったら売りに歩き、余暇の時間を惜しむように内職に精を出し、繁夫に愛情を注いだのでした。当地は冬は2メートル位に大雪が積もりますが、夏には街中を流れる大きな江の川(ごうのかわ)で豊富にアユが捕れ、春は桜、秋は紅葉と自然に囲まれた風光めいびな所で育っていきました。住居の小さな家から向かって右二軒目が父を可愛がってくれた駄菓子屋で畑中のおばさんの家、三軒目が稲荷神社、誰から言われるでもなく、毎朝父は自分の家の両隣から神社まで欠かすことなく掃きつづけました。確か4歳の頃の話だそうです、そして豆腐の配達や、僅かの駄賃を頂くために役場迄弁当を届けたりと一生懸命に母を助けたのでした。この姿を見ていた近所の人が、誰からともなく父を「太閤さん」と呼ぶようになったそうです。勿論、信長の草履持ちから艱難辛苦(かんなんしんく)して豊臣秀吉になったあのお方のことをになぞらえての呼び名だと父が話してくれました。こんな父に盆と正月に畑中のおばちゃんが必ず、おこずかいにと駄賃二円と新しい下駄をプレゼントしてくださったと言う事です。やがて小学校、中学校と進級しました、得意科目は数学(昔は算数)だと自慢していましたが、懐かしいですね。やがて母親を困らせることなく楽にして上げる方法は何だろう。。考えた考えた末に手職をつける事が一番だと悟り、広島市の理髪店に住み込みこんで働くようになっていきました。そこはすごく厳しい店で何度か挫折しかかったと言ってましたが、そのたびに母から、お前が一人前になるまでは家の敷居はまたがせんと,追い返したそうです。いやいや今の母親になかなか出来る事では有りませんね!やがて立派にお礼奉公もすまし、一人前になり、そして被服支廠(ひふくししょう)でのフジ子との出会いに繋がって行ったのです。。。
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<母> |
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母(佐々木フジ子)は1918年(大正7年)、繁夫の生地に近い寒村、当時双三郡上川立で父、山本久太郎と,母イチヨの間に7人兄弟の5番目の子として生まれました。イチヨは産後の肥立ちが悪く,我が子を気遣いつつ42歳でこの世を去りました。そのせいで母も幼くして苦労をしたらしく、地味で我慢強い性格もその時に培われたのでしょう。家庭用水は、少し離れた所にある涌き水を天秤に担いで運ぶのが日課でした。それが終わってやっと学校に行くのですが下の妹をおんぶして勉強していた事を折に触れ懐述していました。時代が違うと言えばそれまでですが、今の者にそんな真似ができますかね。。昔の人は親を助け、兄弟姉妹仲良く、食べ物に文句を言わず、欲しいものを言わず、辛抱して育ったのです。やがて、父と運命の出会いとなる陸軍被服支廠で働き始めました。真面目で物静かな優しい母に父は一目ぼれしたようです。余談かもしれませんが、母は結婚式に自分の髪で文金高島田を結ってもらい式に臨みました、それは父が惚れるのも無理ないくらい美しかったそうです。母の優しさは、何もかも包み込んで、身を挺してかばって下さる観音様のような。。そんな度量の大きな方でした、私や禎子も母から大きな声で叱られた覚えがないんです、月並みですが今度生まれ変わっても、この母のもとに生まれ合わせたいと思います。
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父の叫び |
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「父ちゃん、今日も来てくれたんよね」
「禎子、何にもしてやれなくてごめん」
父は切なくなると
三篠川の川辺に立って、腹一杯の大声で
禎子を何度も呼びながら、人目を忍んで泣いていました。
それは、そこが、かって衛生兵だった時
向こう岸の我が子の名前を呼びながら対話した所でもあり
娘えの懺悔(ざんげ)の場所にふさわしいと思う理由でした。
一緒に過ごした12年の短い時間は
思い出を、追っても追っても、悲しみを追いかけるばかり。。。
「ほんまに、あの時怒らにゃあよかった」
父は何度、この言葉を口にしたことか
悔やんでも、 くやんでも
悔やみ倒す事はない、と
死ぬまでざんげの毎日でした。
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追憶 |
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1945年(昭和20年)「5月」
父が川岸の向こう側より 母に大声で叫ぶ 「明日 例の所に鈴木をきかして置いてくれ」
当時 広島で一番のお金持ちさんが 砂糖問屋の鈴木さんでした。
甘いもの好きの父が砂糖を沢山使っておはぎを作ってくれ、と言う隠語でした。
父一流のウイットでです。
その頃、広島には陸軍の司令部がありました。父は原爆投下の時、司令部の命令で
広島の奥、中国山地の山あい三次の広島陸軍病院分院に配属となっていました。
衛生兵の父は、上官の散髪をする事も仕事でした。そのせいか割と自由に外出許可を
もらい、僅かな時間を見計らって、自転車で禎子の居る店まで帰ってきていたのです。
ある日、父が乗って帰った自転車を見て、突然雅弘がぐずりだした。そんな時禎子は、
「兄ちゃんを先に乗せてあげて」と言うのです、僅か二歳の禎子が 。。。
二人で遊びに行って帰る途中、兄は着ている物を道端に脱ぎ捨て、それを黙って
拾うのは妹でした。本当に歳を疑いたくなる程、かいがいしかったそうです。
昔から気の利いた子、かしこい子は早死にすると言う、いわれが有る事を、父はとても
気にしていました。
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禎子「SADAKO」の運命が動き始めた |
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1945年(昭和20年)8月6日、この日は深夜0時25分に空襲警報が出され、2時10分に解除、緊張感がほぐれた頃の午前7時9分、今度は警戒警報が鳴り、高い高度を飛行機が一機通過して行きました。7時31分に又警報が解除されました。妹の禎子が兄である雅弘の手を引いて防空壕より、よたよたとはい出て家に入りました。。今日も時計は回っていました、そして午前8時15分、広島の上空で一個の原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂しました。『禎子』の命運が動き始めたのです。丁度朝食の時間帯で母(フジ子)と祖母(マツ)に雅弘、禎子の4人が卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでいました、その時でした近所の方達のけたたましい声に私達家族は家の外へと引き出されました。みんなで東の空を見上げるとキラキラと光る実に美しい物体がそこにありました。それは強烈な残像で今も脳裏に焼き付いているのですが、これが原子爆弾を搭載して飛来した『エノラ・ゲイ』と言うB29爆撃機でした。テニアン島を発進して2740kmを6時間半飛行して広島上空に入ったのです。8月6日の投下目標は広島、長崎、小倉の三地点と決められていました。先にテニアンを発進した気象観測機が小倉の天候不良を『エノラ・ゲイ』に伝えました、この瞬間、悪魔は広島に微笑んだのです、何と言う巡り合わせでしょうか、この選択肢によって一瞬のうちに多くの尊い命が無理やり奪われてしまいました。地上580mで炸裂した火の玉の中心温度は100万度を超え、1秒後には爆心地周辺の温度は3000から4000度にもなりました。当時の広島の人口は約35万人で、この中には朝鮮、台湾、中国大陸、東南アジア、アメリカ軍捕虜の方々も含まれていました。1945年12月末(昭和20年)迄に推定、14万人前後の人命が奪われました。これは広島に居た人口の約40%にもなりました。特に当日建物疎開作業には12−13歳の子供達を中心に8,400人が駆り出されており、その内の6,300人が原爆の犠牲となられ、私の両親の身内もおおくが犠牲になりました。私達は爆心地より1.6kmの地点で被爆したのです。猛烈な熱風と爆風が市中のありと、あらゆるものを破壊しつくしました。爆心地より2km以内の建物は全壊、全焼しました。私の家も例外では有りません、家の玄関にあった古い型の重い自転車が家を突き抜けて裏庭に飛ばされ、畳は全てめくりあがり、家は全く外形をとどめず、無残な姿をさらけ出していました。この時禎子は二階から降ってきた低いミカン箱にちょこんと乗っかって極限の恐怖を体感し、泣きながら母を捜していました。雅弘は祖母と共にめくれあがった畳の下敷きになり、頭より血を流して倒れていました。しかし禎子はと言うとかすり傷一つなく、どうしてミカン箱に乗っかってしまったのか未だに謎なんです。。。
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母もすぐ気を取り直しました、すでに周囲は火の海で、今にも道路をふさぐ勢いになってきました。さっきまで話していた近所の人が見えないのです、みんな黒い水あめのように溶けていました。もう人間も動物も物も混ぜこじゃになって溶けていました。恐ろしい状況にひるんでいる隙はありません、まだ生きている子供と祖母を何としても助けねばなりません、この火勢から逃れるすべは川しかなかったのです。母の足は近くを流れる本川(ほんかわ)に向かっていました。火の粉を払いながら川辺に着きましたが、そこはすでに地獄の修羅場と化してました。息絶えた人、水を求めてもがき苦しむ人、喉をかきむしりながら助けを呼ぶ人、もう何にも反応を示さない人、もうどうにもしようがない人、黒くなった子供を抱いて息絶えた人、皮膚が着物のように垂れ下がり、夢遊病者のようにうつろな人等など、この世ではない状景がそこに広がっていました。川面には既に息絶えた人の死骸が腐った浮き草のように一面に浮いていました。。。『おーい、佐々木さーん早くこれに乗りなさい』近所のおじさんが呆然と立っている私達に驚いて来てくださいました。しかしこの時突然、祖母(マツ)はどうしても子供に持ってくるものを忘れたと言い、母や私達の執拗な引止めを背に受けつつも火勢のますます強まった家の方向に引き返して行ってしまいました。これが祖母を目にした最後の瞬間でした。。。すぐにおじさんは小舟に乗せて下さいました。千載一遇のチャンスとはまさにこの事なんでしょうか、天使が使わされました。しかし小舟はどうした訳か底に穴があいていました、禎子と一緒に小舟が沈まないように一生懸命に水を汲み出していました。やがて2時間ぐらい経ったでしょうか、大粒の雨が降ってきました、禎子の顔にも体にも黒い筋が引かれてます、私も母もおじさんも、真っ黒になりました。これには恐ろしい放射能が含まれていましたが誰一人知る由も有りませんでした。まだ息ある人から『おーい、舟に乗せてくれー』と声が聞こえました、母ははっとして自分の思いを言おうとしました、がその時おじさんが強い口調で『佐々木さん、ここで仏心(ほとけごころ)を出したら、もろともに死ぬよ!むごいけど助かるもんが生きんといかんのじゃ、知らん顔をしときんさい』と、それでもと、母にはその言葉を否定する心が生じるゆとりは残っていませんでした、何と虚しい事でしょうか。。。やがて昼過ぎには家の有った楠木町辺りの火勢はおさまってきました、頃合を見計らって小舟から降りました。母は道を選びながら禎子と私の手を引いて、避難場所に指定されていた大芝公園迄やっとの思いで着いたのでした。
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父の話では大芝公園は臨時の火葬場となり、多くの身元不明の方々をそのまま油をかけて焼いたそうです。幸いにも祖母の遺骨は近所の人により確認が取れて、父が訪ね歩いたすえに遺骨を引き取る事が出来ました。
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丁度母の里の方面に行く兵隊さんのトラックに乗せて頂く事が出来ました。母も私も禎子も凄くお腹がすいていました、この時兵隊さんが下さった一枚の乾パンの美味しかった事、兵隊さんの優しかった事が脳裏に焼き付いています。ああ〜これで助かったんだと思いました。木炭燃料のトラックは乾いた土煙を上げながら数時間をかけて母の里近くに到着し、これからしばらくの仮住まいになる消防分団の小屋に入りました。母は安堵の余り、気の抜けた人魚の様にそこに座り込みました、今までの緊張がいかにすざましい状態の体感に基ずいていたかを察していただけるはずです。
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やがて、父、母、禎子、雅弘の厳しくてつらい生活がここからスタートしました。在る意味では禎子の我慢強さの原点はここから始まったと言っても過言ではないかもしれません。戦後の食糧難をみんなで力を合わせて乗り切って行く生命力は家族の和合があったからに他なりません。戦後の困窮がかえって強い絆を形成して行きました。
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疎開先で |
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19476年(昭和21年)
戦後、疎開先でのことでした。ある日父から速達の手紙を何通か出してくるように
頼まれました。禎子と私は、駄賃を貰って喜んで郵便ポストを目指しました。
郵便ポストは家から2キロ先の駅前にありました。小雨が降っていましたが二人で
手をつなぎ、楽しく出発したのです。
途中雨が大降りに変わりました。私はそのあたりに有った牛小屋に、頼まれた手紙を
投げ入れて帰ろうとしました、しかし禎子は泣きながら猛反対をしたのです。
私はそれを押し切って禎子の手を引き家に帰り、父にはポストに投函したことを
報告したのです。これが物心着いて私が付いた最初の嘘でした。
果たして、何週間経っても返事の来ない事に不信を抱き始めた父に、その牛小屋の
住人から、「佐々木さん うちの牛小屋に 手紙が入っとったが あんたん所のと
有りません。しかし禎子は、何一つ言い訳をしなかったのです。
又ある時、私と追っかけっこして遊ぶ内、窓から転落して額に三日月形の傷を
負いました。村に唯一有る、医者に連れて行かれたのですが、麻酔薬が無くて
傷口をそのまま縫合したそうです。しかし、その痛みに禎子は耐えたのです。
小さな禎子の、初めての試練でした。そしてこの地で、妹(美津江)が生まれました。
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新たな出発 |
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1947年(昭和22年)
広島市中区鉄砲町にバラック建ての理髪店を開店しました。
まだまだ物資の無い時期で、食料品から日用品まで、全て配給制度になって
いました。その頃の唯一の楽しみは、時々外食を食べに連れて行ってもらう事でした。
自分の目の玉が写るくらいの、うすい雑炊でしたが、それでも美味しくて長時間
並んんだ末、食べたことをきのうの様に思い出します。
この時代は闇市(やみいち)がはびこり、それを取り締まる経済警察が幅を利かせていました。
ある日、母の実家あたりで、父が軍隊より頂いた僅かな衣料や砂糖を米と交換してもらい
みんなで心弾ませて汽車に乗り、広島に向かいました。今日は経済警察が入るとの
情報が流れました。案の定、広島の手前、戸坂の駅付近に来た時、手入れが入りました。
折角大事に持ち帰った貴重な命の米、捕まらないためには車窓から米を投げ捨てる
以外に無く、みんな放り投げ始めたのです。何故??禎子と私は狂ったように泣きじゃくりました。
状況が解らぬ子どもには、とうてい理解できない事でした。
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| 禎子入学 |
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一九四九年
「昭和二十四年四月」
戦後で様々な不自由は有りましたが
禎子は 無事 幟町小学校に 入学する事が出来ました
私の小学校入学の時 洋服は 父の軍服を切って
母が一生懸命縫ってくれました
カーキ色でしたので 学校では少し恥ずかしい思いをした事を
今は申し訳なく思っています
しかし 禎子の入学の時は
紺のビロードのワンピースに
同じビロード地の テンガロンハット
可愛く着飾って
精一杯の オシャレをさせていた事を
写真を懐かしんでいます
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| 禎子7歳の試練 |
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一九五〇年
昭和二十五年「八月」
蒸し暑い日でした
突然 禎子がぐったりしました
熱のない肺炎と診断され 気付くのが 遅れたため
二人の医者からは 薬もないし もう手の施しようがない事を 通告されました
両親は 一晩中 祈りながら
禎子の胸を 湿布し続けました
どうしても 死なせるわけにはいかない
その強い思いは 天に通じました
禎子は 翌朝 何事も無かったかの様に 回復したのです
これはまさしく奇蹟でした
医者のほうが ビックリされたようです
両親は禎子の強運に 心から感謝しました
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| 幸せな日々 |
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一九五三年(昭和二十八年)
店を 鉄砲町から もっと中心街の
八丁堀に 新築移転しました
そこには 父と母が建てた
三階建ての家が 誇らしげに 建っていました
二階は貸事務所でしたので
その入口と 階段の掃除は 禎子と私の役目です
厳格な父は
そこの掃除が 済まないと
例え学校が遅れても 行かせてはくれませんでした
店も繁盛し 床屋のお弟子さんも 住み込みで取り
大勢での 食事は とてもにぎやかで
何処にでも有るような 平凡な幸せが
しばらく続いたのです
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| 禎子六年生進級 |
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一九五四年(昭和二十九年)
「四月」
禎子は 幟町小学校六年に 進級しました
本当に 元気過ぎる程の 女の子でした
「大好きな物は 友達と 美空ひばりと歌 花はバラとカーネーション
それに 好きな果物は ブドウとナシです」と ある時友達に出した手紙にそう書いています
どんな友達とも いつも仲良しでとても明るく 相談しやすい
子どもだったそうです
又 この時 六年竹組は 新しい先生に代わりました
野村です と自己紹介され あだ名は「青鬼」と言うことでした
名前は怖かったのですが とても ユニークな魂の熱い先生でした
前任の先生から 六年生全体で一番まとまりが無いのが
竹組だ と聞いておられたので
先ず取り組まれたのは クラスの団結でした
五月の運動会のリレーの時 竹組は学年で最下位となり
禎子もみんなも 本当に悔しい思いをしました
青鬼先生は みんなの前で「リレーの おお負けは 当然の結果だ
こんなにクラスの全員の心がバラバラも珍しい
おまえ達がそんなに悔しいのなら 今日から全員が心を一つにするために 練習をする事だ
「バトンは心で渡せ」とムチを打たれました
それから 秋の運動会に向けて 一丸となって毎日毎日練習したのです
そして十月五日 秋の運動会 竹組は とうとう 優勝を勝ち取りました
禎子はその時のことを 文集に こう書いています
「楽しみにまっていた 十月五日運動会の日
私の一番胸を打っているのは 選手リレーのことでした
先生は おなかいっぱい 物を食べてはいけないと言われたので
何べんも お便所に行って 体を軽くしてリレーを待っていると
とうとう一番終わりのリレーが 来ました
私は お母さんが見て居られると思うと 無我夢中で走りました
竹組は 沢山の差をあけて一等です あちこちから どっと歓声の声が上がりました
もう嬉しくてうれしくてたまりません どちらを向いても 嬉しそうな顔が 浮かんでいました」
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| 禎子11歳 忍び寄る苦 |
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一九五四年 昭和二十九年「八月」
家族みんな 原爆を 体験した事すら 忘れている毎日でした
禎子は六月二十四日 年一回の原爆障害調査委員会ABCCの検査を受けました
白血球が四千五百で異常のない数値でした 夏休みのある日 店の慰安旅行をかねて
広島港外 つつみヶ浦へ海水浴に行きました 当たり前のことですが 禎子の体にも
異常は見られず 楽しい時間でした 帰りの 船の上で撮った一枚の写真が残っています
今見てみると 海水浴で疲れたのか 少しけだるい表情に見えます
この先の 禎子の命運を 誰も予知出来るハズはありません しかしこの時 すでに
病魔が忍び寄っていました そして同時に経済的にも家族に暗い陰が覆い始めていました
父は 友人がした借金の保証を引き受けて その支払いを しなければなりませんでした
日増しに増える支払い その支払いをする為の借金 段々と増える 請求と取り立て
日頃の生活にも 本当に困っていました
ある日 家に数人の男の人が来て 文句を言わせず家にある金目の ありとあらゆる物に
赤い紙を貼り付けてしまいました 税金滞納による差し押さえです
禎子と私は 必死に抵抗しました しかし子どもには どうしようもありません
ただただ兄妹で 泣きじゃくるしかありませんでした
そして 秋の運動会の少し前でしたか 父が涙を浮かべながら
「このお金を 返しに行ってきてくれんか」と 禎子と私に頼んだ事がありました
私達はその事務所の前迄来て 行ったりきたり 何度も入ることを ためらいました
心を決めて恐る恐る中に入ってみると そこが取り立てに来ている所だと判りました
胸がどきどきし 心臓が飛び出しそうでしたが父に代わって支払いに来た事を言いました
「たったこれだけか」と罵声が飛んできました 二人の体は氷のように固まっていました
とっても悲しくて怖くて涙がボロボロ止まりません
でも父と母の為に 役に立ったと思うと禎子と
とても幸せな 気分になったことを 覚えています
今になってみると 幼い二人を
支払いに行かせねばならない程
困りはてていた 父と母が
さぞ 苦しかったであろう と思うとき
とても切ない気持になります
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| 禎子の心配 |
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うちもしかしたら 原爆病なんじゃろうか ?
一月になって熱が出て 首のあたりが
少〜し腫れたりして心配なんじゃあ !
この間も原爆障害調査委員会
「 ABCC」に連れて行かれた そして病院も三度も変わって
血を採られた
今日はお父ちゃんの態度が いつもと違う
「 兄ちゃんは(ABCC)に 今年まだ一回しか
行っていないのに *****」
と心配そうな 禎子
「もう一度(ABCC)で診てもらっとくほうが
ええかもししれんね」とお母ちゃんと心配そうに話をしている
(ABCC)は原爆病の検査に行くところ
「だけど 裸にされ 写真を撮られるから うちは行きとうない」
やっぱり 本当に原爆病なんじゃろうか ?
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| 父の不安 そして発病 |
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昭和二十九年 冬休み
遊びから帰った禎子は 「お母ちゃん うちの首ん所が
少しはれて 体がだるいんよ」 と言い出しました
父も 不安を持ちながらも おたふく風邪か
扁桃腺炎位に 軽く考えていました
昭和三十年「一月」初め
近所の岡本外科で 診察を受けましたが
さしたる異常は認められませんでした
それでも 何となく気になった父は一月二十八日
再度『ABCC』で検査を 受けさせました
結果 白血球の数は 一万一千二百
そして初めて 悪性の細胞を造りだす
骨髄細胞が見つかりました
それは この病気が 助かる見込みがない
たちの悪い 血液のガンである事を 示していました
この事を父は かかりつけの 畑川小児科でたずねました
先生は 「健康な子どもの白血球の数は 七千から八千です
それに 悪性の細胞が有ると言うことは
本当にお気の毒じゃが 禎子ちゃんの命は 早ければ三ヶ月
長くても 一年はもたんでしょう」と 言われたのです
この事を どうしても 受け入れることが出来ない父は
あちこちと 病院を変えて 検査をして頂きました
そして二月十六日 ABCCで 再検査の結果
白血球の数は 三万三千を示していました
何かの間違いであって欲しい と思いながら
父は二月十九日 広島市民病院の 検査に
最後の望みをかけたのです
しかし 白血球の数は さらに増加し
四万四千にもなっており
父、母の 僅かな希望を
完全に うち砕く ものでした
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| 父と母 最後の贈り物 |
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一九五五年(昭和三十年)
「二月二十日」
入院が決まった前の晩 徹夜で一枚の着物を 急いで仕立てました 間に合うかどうか
不安で一杯になります 明日禎子に どうしても着せてやりたいと思いました
今夜にでも容態が急 変して間に合わなかったらどうしよう
そんな思いにかられて 床屋の仕事が終わってから 必死で針をすすめました
父さんは禎子を どうしても喜ばせたいと考え
とっさに頭をよぎったのは 一枚もない着物の事でした
無理矢理 禎子を引っ張り 広島で一番の呉服屋さんに連れて行きました
遠慮しつつも気に入ってくれた 桜模様の着物
せめて 生きている内に 禎子の嬉しそうな顔が見たくて ***
いつも明るく不平も言わず 家の手伝いや 弟 妹 の面倒を見ていた 優しい禎子
ふと気が付いたら不治の病を宣告されている
そんな禎子に何かしら出来ることで報いてやりたい
嫁に出すような思いで 着物でも着せて
そんなささやかな華やかさを 味合わせてやりたかったのです
禎子は 初めての着物の袖を通して 本当に嬉しそうでした
袖を通す禎子を見て 私達は泣きました
もう一度元気になって 袖を通してくれることを信じ
元気な禎子になってくれる事を 祈りながら
本当に居なくなる娘の 命の軽さを 恨みました
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| 禎子の希望と決意 |
「二月二十一日」
今日は入院の日です お父ちゃんとお母ちゃんに 病院まで送って頂きました
私の部屋は 中二階 エレベーターを降りた 直ぐ隣り 二〇一号室です
産婦人科病棟と隣り合っていて 時々赤ちゃんの泣き声が聞こえます
とっても可愛いと思いました
主治医は沼田先生です
看護師さんは安永さん初め 何人かのお姉さんだと聞いて とても喜んでいます
あちこちの病室にご挨拶に行きました 皆さんとっても親切で 本当に安心しました
この日 主治医の診断書には
身長 一四〇センチ
体重 三十一キログラム
白血球 三万七千四百
赤血球 三八二万
血色素 七十七パーセント
睡眠良好と書かれていました
そして診断書最後には ハッキリと
「サブアキュート リンパティク ルキミア」
と英語で記されていました
この夜 禎子は 誰にも知られないように ある重大な決意をしたのです
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