辞書にはないのですが、「老い立ち」とは生涯にお世話になった方々に、老いて立ち逝く時に、
自分の境涯をあからさまにすることで、全てをさらけだして、それでお許しを請いたいと書き記すことでもあると思います。
<おいたち>
繁夫・・・1937年(昭和12年)春頃、陸軍被服支廠<ヒフクシショウ>(軍服、軍靴等を造る軍需工場)の理髪部に入所、父23歳の時でした。母フジコは同年3月、父より少し早く入所していました。母20歳の春たけなわの事でした。母は小柄で色白の美しい人で性格も温和、
こんな人を射止めた父は正直者の働き者、起用で繊細な性格、どうして引き合ったのでしょうか・・・・やがて大きな節目を迎えます。
1940年(昭和15年)3月末頃、当時広島市楠木町1丁目723番地に「日之出理髪館」を開店、続いて10月15日当時広島市千田町の料理屋にて挙式、16日近所の挨拶廻り、翌17日より早くも理髪の仕事を開始したのでした。
義母マツと同居、苦労人のマツは事のほか父をちょう愛したのです。何処にでもあるような光景ですが、朝父が調理するんです、弟子の時に鍛えられていたのが役にたったんでしょう、包丁の運びが実に軽快でリズムが良いんですよ、マツばあちゃんはそれを知っていて、その音を聞き、今ネギを切ってるのは繁夫じゃろと言う、父はかばって・・・いやフジコよと・・・いやその音は繁夫じゃ・・・と本当にやりにくかったでしょうが、母は一度でもマツに反発した事は無かったと、父が自慢そうに後々までの語り草としていました。今の方々に真似が出来ますかね?
母は誠に辛抱強いお方ではありました。
<なれそめ>
『さだこと共にした12年の真実をここに記す』
劇的に生まれた(禎子)
1943年(昭和18年)1月7日午前4時42分、急に産気づいた母を乗せて大手町に居た父の姉の所に向かう途中、輪タク(三輪自転車のタクシー)の中でいとも簡単に産声を上げたのです。
15日の予定日を一週間も早く生まれたために、何の準備もする事が出来なくて、全てが
右往左往、誠に劇的でありました。運転手さんは近所の方で、千載一遇の廻り合わせ
実に縁起が良い、と言ってお祝いまで頂戴したのでです。初めての女の子故、祖母マツをはじめ父繁夫、母フジコ共々非常に喜んだそうです・・・・・。
2002年10月25日
来年は多分いないであろう(禎子)の父を看病させていただきながら、
この物語を初められる事が出来たのは、世界中の平和を求める人々に
メッセージを託すために、天が与えてくださった希有の時空と思います。
禎子の命日に初筆を入れることが出来た廻り合わせに、心から手を合わ
せたいと思います。 禎子の兄 雅弘
制作 佐々木 繁夫
佐々木 雅弘
佐々木 祐滋

父(佐々木繁夫)は1915年(大正4年)11月11日、広島市から山間部に入った中国山脈の盆地、広島県三次市大工(みよししだいく)町1472番地にて、大作(だいさく)とマツの長子として誕生したのです。
マツ(母)はこの町で小さな豆腐屋さんをして生計を立てていました。事情があって母一人子一人の生活が続きましたが、決して生活は楽ではありませんでした。正直で働き者のマツは、豆腐が出来あがったら売りに歩き、余暇の時間を惜しむように内職に精を出し、繁夫に愛情を注いだのでした。当地は冬は2メートル位に大雪が積もりますが、夏には街中を流れる大きな江の川(ごうのかわ)で豊富にアユが捕れ、春は桜、秋は紅葉と自然に囲まれた風光めいびな所で育っていきました。自分の小さな家に向かって、右二軒目が父を可愛がってくれた駄菓子屋で畑中のおばさんの家、三軒目が稲荷神社、誰から言われるでもなく、毎朝父は自分の家の両隣から神社まで、欠かすことなく掃除をしつづけました。確か4歳の頃の話だそうです、そして豆腐の配達や僅かの駄賃を頂くために役場迄弁当を届けたりと、一生懸命に母を助けたのでした。この姿を見ていた近所の人が、誰からともなく父を「太閤さん」と呼ぶようになったそうです。勿論、信長の草履持ちから艱難辛苦(かんなんしんく)して豊臣秀吉になった、あのお方のことをになぞらえての呼び名だと言う事を、父は恥ずかしそうに話をしていました。こんな父に、盆と正月に畑中のおばちゃんが必ず、おこずかい二円と新しい下駄をプレゼントしてくださったと言う事です。やがて小学校、中学校と進級しました。得意科目は算数だと自慢していましたが、懐かしいですね、やがて母親を困らせることなく、楽にして上げる方法は何だろう・・・考えた末に手職をつける事が一番だと悟り、広島市の理髪店に住み込みこんで働くようになっていきました。ここは広島一のすごく厳しい店で、父の几帳面さや律儀さ料理のうまさ、節約のし方などやかましくしつけられたそうです。何度か挫折しかかったのですが、そのたびに母から お前が一人前になるまでは家の敷居はまたがせない、と追い返したそうです。 いやいや今の母親になかなか出来る事では有りませんね・・・(いや失礼)。
そして被服支廠(ひふくししょう)でのフジ子との出会いに繋がって行ったのです・・・・・。
<父>
<母>
母(佐々木フジ子)は1918年(大正7年)、繁夫の生地に近い寒村、上川立(かみかわたち)で父、山本久太郎と、母イチヨの間に7人兄弟の5番目の子として生まれました。イチヨは産後の肥立ちが悪く、我が子を気遣いつつも42歳でこの世を去りました。そのせいで母も幼くして苦労をしたらしく、地味で我慢強い性格もその時に培われたのでしょう。家庭用水は少し離れた山の麓にある涌き水を天秤に担いで運ぶのが日課でした。それが終わってやっと学校に行くのですが、下の妹をおんぶして勉強していた事を折に触れ懐述していました。時代が違うと言えばそれまでですが、今の者にそんな真似ができますかね・・・、昔の人は親を助け、兄弟姉妹仲良く、食べ物に文句を言わず、欲しいものを言わず、辛抱して育った様です。やがて父と運命の出会いとなる陸軍被服支廠で働き始めました。真面目で物静かな優しい母に、父は一目ぼれしたようです。
余談かもしれませんが、母は結婚式に自分の髪で文金高島田を結ってもらい式に臨みました。
それは父が惚れるのも無理ないくらい美しかったそうです。母の優しさは、何もかも包み込んで
身を挺してかばって下さる観音様のような・・・、そんな度量の大きな方でした。私や禎子も母から大きな声で叱られた覚えがないんです、月並みですが今度生まれ変わっても、この母のもとに生まれ合わせたいと思います。
<禎子「SADAKO」の運命が動き始めた>
1945年(昭和20年)8月6日、あの忌まわしい原爆が落とされてさえいなければ、放射能を浴びる事もなかったし原爆症も発症しなかったはずです!この日の朝、禎子の運命は約束されてしまいました。この日は深夜0時25分に空襲警報が出され、2時10分に解除、緊張感がほぐれた頃の7時9分、今度は警戒警報が鳴り、高い高度を飛行機が一機通過して行きました。7時31分に又警報が解除されました。妹の禎子が兄である雅弘の手を引いて防空壕より、よたよたとはい出て家に入りました。。今日も時計は回っていました、そして午前8時15分、広島の上空で一個の原子爆弾(リトルボーイ)が炸裂しました。『禎子』の命運が動き始めたのです。丁度朝食の時間帯で母(フジ子)と祖母(マツ)に雅弘、禎子の4人が卓袱台(ちゃぶだい)を囲んでいました、その時でした近所の方達のけたたましい声に私達家族は家の外へと引き出されました。みんなで東の空を見上げるとキラキラと光る実に美しい物体がそこにありました。それは強烈な残像で今も脳裏に焼き付いているのですが、これが原子爆弾を搭載して飛来した『エノラ・ゲイ』と言うB29爆撃機でした。テニアン島を発進し2740kmを6時間半飛行して広島上空に入ったのです。8月6日の投下目標は広島、長崎、小倉の三地点と決められていました。先にテニアンを発進した気象観測機が小倉の天候不良を『エノラ・ゲイ』に伝えました、この瞬間、悪魔は広島に微笑んだのです、何と言う巡り合わせでしょうか、この選択肢によって一瞬のうちに多くの尊い命が無理やり奪われてしまいました。地上580mで炸裂した火の玉の中心温度は100万度を超え、1秒後には爆心地周辺の温度は3000から4000度にもなりました。未曾有の高熱と爆風と放射能が広島の上空から降り注ぎました。辺りは一瞬真っ暗くなり何にも見えなくなりました。人が人でなくなり物が物でなくなった後、人々の怨念のこもったキノコ雲が天空高く立ちのぼりました。しばらくして辺りの景色が見えてきて、ハットと我を取り戻したとき、今まで周りにいた人たちが熔けて塊になって消えていました。当時の広島の人口は約35万人で、この中には朝鮮、台湾、中国大陸、東南アジア、アメリカ軍捕虜の方々も含まれていました。1945年12月末(昭和20年)迄に推定、14万人前後の人命が奪われました。これは広島に居た人の約40%にもなりました。特に当日建物疎開作業には12−13歳の子供達を中心に8,400人が駆り出されており、その内の6,300人が原爆の犠牲となられました。私の両親の身内もおおくが犠牲になりました。私達は爆心地より1.6kmの地点で被爆したのです。猛烈な熱風と爆風が市中のありと、あらゆるものを破壊しつくしました。秒速100メートルを超える爆風は爆心地より1キロ付近にあった広島城の天守閣をまるで大がかりなマジックショウのように一瞬のうちに消しさりました。又2km以内に有る建物は全壊、全焼していました。私の家も例外では有りません、家の玄関にあった古い型の重い自転車が家を突き抜けて裏庭に飛ばされ、畳は全てめくりあがり、家は全く外形をとどめず、無残な姿をさらけ出していました。この時禎子は二階から降ってきたミカン箱にちょこんと乗っかって極限の恐怖を体感し泣きながら母を捜していました。雅弘は祖母と共にめくれあがった畳の下敷きになり、頭より血を流して倒れていました。しかし禎子はと言うとかすり傷一つなく、どうしてミカン箱に乗っかってしまったのか未だに謎なんです・・・・。
母もすぐ気を取り直しました、すでに周囲は火の海で、今にも道路をふさぐ勢いになってきました。さっきまで話していた近所の人が見えないのです、みんな黒い水あめのように溶けていました。もう人間も動物も物も混ぜこじゃになって溶けていました。恐ろしい状況にひるんでいる隙はありません、まだ生きている子供と祖母を何としても助けねばなりません、この火勢から逃れるすべは川しかなかったのです。母の足は近くを流れる三篠川(みささがわ)に向かっていました。火の粉を払いながら二人の子どもの手を引きながら川辺に着きましたが、そこはすでに地獄の修羅場と化していました。息絶えた人、水を求めてもがき苦しむ人、喉をかきむしりながら助けを呼ぶ人、もう何にも反応を示さない人、もうどうにもしようがない人、黒くなった子供を抱いて息絶えた人、皮膚が着物のように垂れ下がった人等など、この世ではない状景がそこに広がっていました。川面には既に息絶えた人の死骸が腐った浮き草のように一面に浮いていました・・・『おーい、佐々木さーん早ようこれに乗りんさい』近所のおじさんがまともに立っている私達に驚いて来てくださいました。しかしこの時突然、祖母(マツ)はどうしても子供に持ってくるものを忘れたと言い、母や私達の執拗な引止めを背に受けつつも火勢のますます強まった家の方向に引き返して行ってしまいました。これが祖母を目にした最後の瞬間でした・・・。すぐにおじさんは小舟に乗せて下さいました。千載一遇のチャンスとはまさにこの事なんでしょうか、天使が使わされました。しかし小舟は焼けていて底に穴があいていました、禎子と一緒に小舟が沈まないように一生懸命に水を汲み出していました。やがてこの世の終わりを思わせるような空気と空の色に変わり、粘りのある黒い雨が降り始めました。子どもながらに今大変なことが起きているんだと分かりました。「お母ちゃん怖いよ〜・・・」と言った禎子の顔に黒い筋が引かれていきます、私も母もおじさんもみんな真っ黒になりました。これには恐ろしい放射能が含まれていましたが誰一人知る由も有りませんでした。これが禎子の命を奪う放射能をたっぷりと含んだ悪魔の黒い涙であったのです。そしてこの黒い雨は皮肉にも私たちが住んでいた広島の西方面にだけ集中したのです。やがて2時間ぐらい川面で漂っていたでしょうか、まだ息ある人から『お〜い、その舟に乗せてくれ〜』とあちこちから声が聞こえました、母は見るに見かね自分の思いを言おうとしました、その時おじさんが強い口調で『佐々木さん、ここで仏心(ほとけごころ)を出したら、もろともに死ぬよ!むごいけど助かるものが生きんといかん、知らん顔をしときんさい』と・・・それでも何とか助けてあげてと言える心が生じるゆとりは残っていませんでした。何と虚しい事でしょうか・・・、やがて昼過ぎには家の有った楠木町辺りの火勢はおさまってきました、頃合を見計らって小舟から降りました。母は道を選びながら禎子と私の手を引いて、避難場所に指定されていた大芝公園迄やっとの思いで着いたのでした。
父の話では大芝公園は臨時の火葬場となり、多くの身元不明の方々をそのまま油をかけて焼いたそうです。幸いにも祖母の遺骨は近所の人により確認が取れて、父が訪ね歩いたすえに遺骨を引き取る事が出来ました。
しばらく経って、運良く母の里の方面に行く兵隊さんのトラックに乗せて頂く事が出来ました。母も私も禎子も凄くお腹が空いていました、この時兵隊さんが下さった一枚の乾パンの美味しかった事、兵隊さんの優しかった事が脳裏に焼き付いています。ああ〜これで助かったんだと思いました。木炭燃料のトラックは乾いた土煙を上げながら数時間をかけて母の里近くに到着し、これからしばらくの仮住まいの消防分団の小屋に入りました。母は安堵の余り、気の抜けた人魚の様にそこに座り込みました。今までの緊張がいかにすざましい状態の体感に基ずいていたかを察していただけるはずです。
やがて、父、母、禎子、雅弘の厳しくてつらい生活がここからスタートしました。在る意味では禎子の我慢強さの原点はここから始まったと言っても過言ではないかもしれません。戦後の食糧難をみんなで力を合わせて乗り切って行く生命力は、家族の和合があったからに他なりません。戦後の困窮がかえって強い絆を形成して行きました。
母の実家が鉄道の線路を挟んで山の麓に見えていました。周りの農家の方もみんな親切な家族でした。ここに居た間はお腹が充分に満たされたとは言えませんが、周りの方々のお陰で飢えることは有りませんでした。でも唯一思い出すのは畑でモミを燃やしながら「いなご<昆虫>」をあぶって食べてましたが、香ばしくて美味しく何の抵抗もなく口に運んでいました、勿論禎子も一緒でした。今「いなご」を食べなさいと差し出されてもとても口には出来ないと思います。
時代が変わったと言えばそれまでですが、飽食のこの時代に世界ではそれ以下の食糧しかない国もあります。みんなで考える時が来てるように思います。
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1946年(昭和21年)
疎開先での事でした。ある日父から速達の手紙を出してくるように頼まれました。郵便ポストは家から2キロ先の駅前にあります、小雨が降っていましたが二人で手をつなぎ喜んで家を出たのです。途中雨が大降りに変わりました、私はその辺りにあった牛小屋に父から頼まれた手紙を投げ入れて帰ろうとしました。しかし禎子は泣きながら猛反対をするのです、私はそれを押し切って禎子の手を引き家に帰り、父にはポストに投函したことを報告したのです。果たして何週間経っても返事のこない事に不信を抱き始めた父に、その牛小屋の住人から「佐々木さん、家の牛小屋に手紙が入っとったがあんたん所のと違うかね」と言いながら、それを持参されたのです。父からこっぴどく叱られたのは言うまでもありません、しかし禎子は何一つ言い訳をしなかったのです。
又ある時、私と追いかけっこして遊ぶうち、窓から転落して額が三日月形に裂けました。村に唯一ある医者に連れて行かれたのですが、麻酔薬がなくて傷口をそのまま8針縫い合わせたそうです。しかしその痛みに身震いしながらも耐えたのです。小さな禎子の初めての試練でした。
<序文>
風が気持ちいいって知っていますか
空気がおいしいって知っていますか
何の心配もなく歩けること
何の心配もなく眠れること
何の心配もなく食べれること
いつもは当たり前のように
時が過ぎていくことを見過ごしてはいませんか
自分の命がなくなると知ったとき
全てのことがもったいなくて いとうしくて こうごうしくて
何でもないことがどれだけありがたいことか
これで命を戻してもらえるなら
当たり前のことや周りの人たちに たくさんたくさん感謝し
「思いやりの心」をたくさんの人にめぐらしながら
みんなと楽しい毎日にしたいと思います
「禎子」より
<父 心の叫び>
「禎子ちゃ〜ん 禎子ちゃ〜ん・・・・・」
無理にしまい込んできた本心、押さえ込んできた我慢の心、
次々とこみ上げてくる禎子との日々・・・・。
父は禎子が亡くなってから、さみしくなると三篠川の川辺に立ち、
禎子と会いたくて、一人で何度も娘を呼んでいました。
何にもして上げられなかった事への父として親としてのふがいなさを・・・・・。
どこにもぶつけられないこの悔しさ、ふがいない自分に対する怒り、
謝っても謝っても、言い尽くせないおもいを・・・。
悔やんでも悔やんでも、 ぬぐい去れない悔しさを・・・。
この川辺に立って、禎子と会話していました。
私の涙はぬぐえても、禎子の涙はぬぐえない。
禎子が我慢した涙の分だけ、泣いてやりたい。
「12年しか生きられんなら、ほんまにあのとき怒らにゃあよかった」
父は何度この言葉を口にしたことか、
親より先に逝った娘に対する懺悔の毎日でした。
<運命の芽生え>
1943年(昭和18年)
禎子の境涯は全てにドラマチックでした。
「1月7日 午前5時頃、産気づいた母を乗せた輪タクの中で座席を汚すことなく
美しく生まれました。このことは母の生涯の自慢でした。
2260グラムの小さな赤ちゃんでしたが、とても元気が良かったそうです。
禎子の「禎」は幸せをつかむと言う意味もあり、元気に幸せになってくれますようにと、
父が姓名判断の先生にお願いして名付けていただいたそうです。
何の不都合もなく、両親の愛情を一杯に受けて素直に育っていきました。
小学校に入ってからの禎子はいつもクラスの人気者、
美空ひばりが大好きで、みんなに歌って聞かせていました。
それに走るのが速く、男子も適わなかったと言います。
これは母の遺伝子を確実に受け継いでいました。
母は県大会にも選ばれたくらいに走るのが速かったそうです。
禎子は言葉遣いも美しく、几帳面で片付け上手、そして気の利く賢い子、
その上とっても「思いやり」のある女の子に成長していきました。
<追憶>
1945年(昭和20年)「5月」
父が川岸の向こう側から母に大声で叫ぶ
「明日例の所に<鈴木>をきかして置いといてくれ」
当時広島で一番のお金持ちさんが、砂糖問屋の<鈴木>さんでした。
甘いもの好きの父が、砂糖をたくさん使っておはぎを作ってくれと言う隠語でした。
(きかして)とは広島弁でしっかり甘くと言う意味で、父一流のウイットです。
そのころ広島には陸軍の司令部がありました。
父は原爆投下の時、司令部の命令で広島の奥、中国山地の山あい
三次(みよし)の広島陸軍病院分院に配属になっていました。
衛生兵の父は、上官の散髪をすることも仕事でした。そのせいか割と自由に外出許可をもらい、
広島の本院に居るときは、わずかな時間を見計らって自転車で母のいる店まで帰ってきました。
ある日、父が乗って帰った自転車を見て突然雅弘がぐずりだしました。
そんなとき禎子は「お兄ちゃんを先に乗せて上げて」と必ず言うのです。
僅か2才の禎子が・・・・。
二人で遊びに行って帰る途中、兄は着ている物を道ばたに脱ぎ捨て、
それを黙って拾うのは禎子でした。本当に歳を疑いたくなるほど、かいがいしかったそうです。
昔から気の利いた子、賢い子は早死にするという謂われがあることを父はとても
気にしていました。
<新たな出発>
1947年(昭和22年)「2月」
広島市中区鉄砲町にバラック<木を打ち付けただけの>建ての理髪店を開店しました。
まだまだ極端に物資が不足している時期で、食料品から日用品まで、全てが配給制度になっていました。<国民に物資が平均的に行き渡るように、各物資についてチケット制になっていました>
だから国で決められただけしか買うことは出来ませんでした。
そのころの唯一の楽しみは、時々家族で外食を食べに連れて行ってもらうことでした。自分の目の玉が写るくらいのうすい雑炊でしたが、それでも長時間並んでおいしくいただいたことを、昨日のように思い出します。良いことか悪いことかは分かりませんが、当時は闇市がはびこり、それを取り締まる経済警察がはばを利かせていました。
ある日母の実家あたりで、父が軍隊よりいただいた僅かな衣料や、当時とても貴重だった砂糖等を米と交換してもらい、禎子と私と母で心を弾ませて汽車で広島に向かいました。途中で「今日は経済警察の取り締まりが入る」との情報が流れました。とても心配でしたが案の定、広島の手前、戸坂(へさか)の駅付近に来たとき、手入れが入りました。せっかく大事に持ち帰った貴重な命の米、でも捕まらないためには車窓からその米を投げ捨てる以外にはなく、みんな放り投げ始めたのです。
禎子と私は訳が分からず、狂ったように泣きじゃくりました。経済警察の取り締まりがどういうものかが理解できない二人にはとてもつらい体験でした。
続く・・・・・
<禎子入学>
1949年(昭和24年)「4月」
この月は佐々木家に、にぎやかな事うれしい行事が重なりました。
一つ目は弟(英二)が生まれたことです。この頃祖父の長兄が裏にバラックを建て増しし同居を始めました。子どもが無かったためにつとにこの弟(英二)を盲愛しました。父の一番良いところは兎に角、親戚兄弟、異母兄弟を分け隔て無く面倒を見たことでした。
後に分かることですが、私にもその素養が受け継がれていました。
又4月、禎子が「幟町小学校(のぼりちょう)に入学しました。床屋の仕事も順調で経済的にも余裕がでてきました。両親は禎子に精一杯のおしゃれをさせました。今では贅沢ではないのですが、その当時青色のビロードで上下服を作り、加えてビロードの帽子まであつらえたのですから、両親の禎子に対する思い入れが分かっていただけるのではないかと思います。
しかし私の入学の時は父の軍服を切って母が縫ってくれましたので体にはフィットしたのですが、何せ黄土色なのでいかにも軍服から作った事が誰の目からもすぐ分かり、とてもいやな思いをしていたことを思い出します。事情がよく理解できないとはいえ、母には本当に申し訳なく思っています。
<禎子7歳の試練>
1950年(昭和25年)「8月」
とても蒸し暑い日でした。朝から元気がない禎子、風邪だと判断した両親は頓服を飲ませて仕事をしていました。すぐ裏が部屋でしたので、そこに寝かせて様子を見ていれば大丈夫と軽く考えていました。午後になって雅弘が学校から帰ってきました。「お父ちゃん、禎子がなんかおかしいよ・・・」と雅弘、びっくりした父は急いで近くの病院に往診を頼みました。既にぐったりしている禎子・・・、先生の診断は慎重でしたが熱のない肺炎であることを伝えたのです。ほんの風邪くらいとの素人判断がとんでもないことになったのです。もう一人の医者も同じ判断で、もう手の施しようがない程の重篤であり、今晩が山場ですと告知されたのです。父と母は自分がそばにおりながらのこの事態に、転倒せんばかりに驚愕しました。これ以上の薬も注射もないと言うことは、医者が見放したと言うことですので後は運を天に賭けるしか無い、「人事を尽くして天命を待つ!」と覚悟しました。風邪は冷やさねばならないし、肺炎は温めねばならない、眞逆の方法をしなければならないことに躊躇は有りましたが、兎に角二人で一晩中祈りながら禎子の胸を湿布し続けました。どうしても死なせるわけにはいかないとの強い思いは天に通じました、翌朝禎子は何事もなかったかのように回復したのです。これが本当の手当と言うものでしょうか、これには先生も大変驚かれ、この子は何かの使命を持って生まれた故に命を救われたのでしょうねと言われたそうです。本当に奇跡としか言いようのない事でした。
<禎子2歳 雅弘4歳>
ある時二人は近所の広場に遊びに行きました。ケガをしないように転ばないように手をつなごうとするのは禎子、いやがるのが兄の方、何にでも興味津々なのは雅弘、しこたま遊んだ後ご飯だから帰ろうと促すのは禎子でした。
帰り道、服を脱ぎ捨てて帰るのは兄、その服を拾いながら後に続くのは妹でした。
又1日に何回か鳴る空襲警報のサイレンを聞いたらすぐ兄の手を引き防空壕に急ぎ入ろうとするのは禎子でした。これほど気の利く賢い子に両親はそのとき感心していたものです。
余談になりますが、結婚式は母は自髪で文金高島田を結い上げたそうです。まあ当時一般的ではあったようですが・・・父は一目惚れでしたが、母には結構ワンマンでしたようです、でもとても母を愛していました。今で言う嫁姑の関係は変わらなかったようですね、でもばあちゃんも嫁をいじめるのではなく、家風に染めていく為の手段でしたので、陰湿ないじめはなかったようです。
ある時、母が朝食のみそ汁を作っていて、具材のネギを切っていました。そのまな板に当たる包丁の音とリズムを聞いて隣の部屋からおばあちゃんが言いました。「今ネギを切ってるのは繁夫じゃろ〜」、「いや違うよ、フジ子よ」と言うと、「嘘ついてもわかるんよね、今のは繁夫じゃ〜」、それぐらい父のネギの刻み方は訓錬されものでした。
それ以後記憶にある限り、運動会、遠足など私たちは「明日はえんそくじゃけんね〜」と言ってお願いするのはいつも父でした。母も父には適わない事をいつしか悟りました。だからそれによる諍い(いさかい)はありませんでした。その代わりと言っては何ですが、私の妻が嫁入りして一番驚いたのは母が大工仕事をして、父が料理のためにいつも台所に居ると言うことだったそうです。まあずいぶんとうまく分業された佐々木家でした。
<幸せな日々>
1951年(昭和26年)
店を鉄砲町のバラック屋から、もっと中心街の八丁堀という所に土地を購入し、新築移転しました。
そこには父と母が建てた当時には珍しいモルタル木造の三階建ての家が誇らしげに建っていました。
二階は貸事務所でしたので、その入り口と階段の掃除は禎子と私の役目です。厳格な父はそこの掃除が済まないと例え学校に遅刻しても絶対に行かせてはくれませんでした。
そのころ、まだ周りは原爆の被害の痕跡があちこちに残っていました。私たちの家の裏にも缶詰工場
のがれきがたくさんありました。禎子と遊ぶのはいつもそこで、その向こうには陸軍の練兵場跡が悪夢の遺産のように残っていました。いつも町中には進駐軍のアメリカの兵隊さんが大きな車やジープで
走り回っていました。町にはこんな話が流れていました。「アメリカの家庭には車が一家庭に1〜2台あるんだと・・・」、うらやましいな〜と思いながら過ごしていたある日、禎子と裏のがれきの中で遊んでいたとき進駐軍の車が通りかかりました、私は何故か、とっさにその車に向かって缶詰のフタをフリスビーのように投げつけました。フタはその車のフロントガラスをかすめました、急ブレーキをかけて車が止まりました。これは大変なことになったと思い、禎子と必死で物陰に隠れました、どのくらい身を潜めていたのか分かりませんが、しばらくしておそるおそる出て見ましたが、アメリカ兵は立ち去っていました。今までで一番怖い思いだったような気がします。今思いますと多少なりとも偏見でアメリカを見ていた思いが自然の行動としてなされたのかもしれません。このことは禎子と黙って誰にも言わないようにしようと決め、両親に話すことは禎子が生きている内はありませんでした。
店も繁盛し、住み込みのお弟子さんも置き、大勢での食事はとてもにぎやかで、食事支度も時間と
お客様の散髪の合間を見て父が作っており、父が生きている間は佐々木家のごく当たり前の慣習でありこれ以後しばらく平凡な幸せが続いたのです。
禎子は小学校ではとても足の速い女の子でした。ある日全校で50メートル走の記録会がありました。私は6秒8で禎子は7秒5でした。この記録は結構全校でも上位で、やはり母の遺伝子を受け継いでいることが証明されたのです。
休みの日には野村先生の自宅の近くにクラスメイトの大半が遊びに行っていました。近くはすぐ海で、その海沿いに吉島飛行場という小さな軍が使用していた飛行場がありました。そこで貝掘りをして家のおかずになるようみんな一生懸命に拾い又鬼ごっこでは、禎子がいつも男の子を追いかけ捕まえたようです。ちなみに私は釣が好きでいとこと夜釣りに出かけたことを思い出します。