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佐々木禎子について ~公式紹介文~

《 はじめに 》

佐々木禎子については、様々な方がいろんな場面で紹介して頂き、誠にありがとうございます。
大変恐縮なのですが、細かな点で間違った情報が流れているのを時々目にしております。
ここに紹介する佐々木禎子についての情報は、
細かな数字まで確認し正確な情報としてご紹介させて頂きます。


佐々木 禎子 1943年1月7日~1955年10月25日

広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルとなった原爆の被爆者のひとりであり、2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

1955年10月、広島市内三篠町の自宅 で2歳のとき被爆した小学6年生の少女佐々木禎子は、亜急性リンパ性白血病と診断されて、広島赤十字病院に入院。
「千羽鶴を折れば、願いが届く」と祈りながら同年5月から薬包紙や見舞い品の包装紙で、鶴を折り始めたげ、願いむなしく原爆症で12歳の人生を閉じたことがきっかけとなり、千羽鶴が平和のシンボルとなった。
禎子は、1000羽の折り鶴を折りあげる途中に亡くなり、残りを彼女の同級生によって折られ、彼女と一緒に埋葬された。
 
「その悲しみと平和の願いを世界に」と、禎子の級友たちが「原爆の子の像」の設立を呼びかけ、1958(昭和33)年のこどもの日(5月5日)に広島市平和公園内に完成し、シアトルの平和公園にも銅像がある。



禎子が生きた4675日
佐々木禎子は1943(昭和18)年に生まれ、2歳の時に被爆しました。
運動の得意な元気な少女に成長しましたが、被爆から10年後に突然白血病であると診断され入院しました。
千羽鶴がお見舞いに贈られたことをきっかけに、「生きたい」という願いを込めて折り鶴を折り始めます。
8カ月の入院生活の末、家族が見守る中亡くなりました。

両親の願いは元気な子供に育つこと
禎子の家族
1943(昭和18)年/楠木町(くすのきちょう)
佐々木禎子が生まれたのは1943(昭和18)年1月7日。理髪店を営む佐々木家の長女です。
当時日本は戦争をしており、禎子が生まれて間もなく父が召集されたため、母が理髪店を切り盛りしていました。写真中央の母に抱かれているのが禎子。


原子爆弾の投下
原爆投下
1945(昭和20)年8月6日、原爆が投下されました。家族と共に爆心地から約1.6kmの楠木町の自宅で被爆した禎子は、爆風で屋外まで飛ばされましたが、やけども傷も負いませんでした。すぐに辺りから火の手が出始めたので、禎子は母に背負われ避難しました。その際、三篠橋付近で「黒い雨」に打たれました。
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復興に向かって
原子爆弾投下2カ月後の様子
1945(昭和20)年10月上旬(じょうじゅん)
禎子の自宅は全焼したため、家族は県北部の三次の親類の家に身を寄せることになりました。爆心地から半径2km以内の地域は、熱線と火災によりすべて燃え尽くされたのです。原爆の爆風と熱線、そして放射線は人々に被害を与えました。当時市内には約35万人がいましたが、一発の原爆で、その年の12月末までに14万(±1万)人が亡くなりました。

復興への新たな生活の始まり
撮影時期不詳/日の出理髪店
戦後の混乱や物不足に苦しみながらも、再建するための努力が続けられました。佐々木家も1947(昭和22)年に新たに市内に理髪店を開き、生活に落ち着きを取り戻していきました。禎子は元気に育ち、幟町小学校に入学しました。


足の速さは学校一番 足の速さは学校一番
1954(昭和29)年10月/幟町(のぼりまち)小学校
6年生になった禎子。身長135cm、体重27kg。少しやせ気味ですが、いたって健康。かけっこはだれにも負けません。50mを7.5秒で走りました。秋の運動会ではリレーの選手に選ばれ活躍しました。将来の夢は中学校の体育の先生。9月ごろから少し顔色が悪いことに気付きましたが、特に気に留めることはありませんでした。前列中央が禎子.。

病の兆し病のきざし
1954(昭和29)年11月下旬、禎子は軽い風邪をひき首や耳の後ろにいくつかしこりができました。徐々にしこりは大きくなり、おたふく風邪のように顔がはれました。正月明けに近所の病院に行きましたが、いっこうにはれはひきませんでした。1月末には左足に紫色の斑点がみられました。しかし、だれにも禎子の体内で進行していた病気は分からなかったのです。

死の宣告
1955(昭和30)年/広島赤十字病院
当初は風邪と思っていましたが、病院をまわって詳しく検査した結果 、白血病と診断されました。2月18日、お父さんは医者から「長くて一年の命。すぐ入院が必要」と宣告されました。禎子がそのような重病だとは、信じたくありませんでした。お父さんから「はれを治すため少しの間入院しなければならない」と説明を受けた禎子さんは、2月21日に広島赤十字病院に入院しました。

同級生のお見舞い同級生のお見舞い
1955(昭和30)年/広島赤十字病院
小学校の同級生は、禎子の入院を担任の先生から聞き、交代で病院にお見舞いに行きました。卒業式では、出席できない禎子の代わりにお父さんが卒業証書を受け取りました。入院から約1カ月後、禎子はクラスの友達と同じく中学校に進学はしたものの、通うことはできませんでした。


平和の祈り 平和への祈り
1955(昭和30)年8月6日/平和記念公園
8月6日、外出許可をもらって家族で平和記念式典に参列することにしました。しかし平和記念公園に向かう途中、禎子は歯ぐきから出血し体調を崩したので式典には参加せず、すぐ病院に戻りました。



届けられたお見舞いの鶴届けられたお見舞いの鶴
1955(昭和30)年8月3日/広島赤十字病院
8月初旬、禎子は薬の効果 で首のはれが少しひき、比較的元気でした。しかし両足には紫色の斑点が出ており、少しずつ病気は進んでいました。8月3日、名古屋から色とりどりの折り鶴がお見舞いとして病院に送られてきました。その美しさに、入院患者の多くが自分でも折り始めました。禎子もそれをきっかけにして、病気を治したいという願いを込めて折るようになりました。



消えた生命
1955(昭和30)年/広島赤十字病院
禎子は、自分が折った鶴に糸を通して、病室の天井からつるしました。折り始めて一カ月足らずの8月末までに禎子の折り鶴は千羽に達しました。それ以降も禎子は鶴を折り続けました。9月末、入院以降三度目の白血球の増加が始まりました。次第に自力では歩けないほどに、体調は悪くなりました。10月25日の朝、家族が見守る中、亡くなりました。


(資料監修 佐々木祐滋)
 NPO法人SADAKO LEGACY 事務局